葉っぱ 三枚おろし

2006年4月1日

いつ頃からか毎日聞くのが日課となった朝のラジオ番組に、武田鉄矢の「今朝の三枚おろし」がある。武田鉄矢といえばご存知、母にささげるバラード、最近では功名が辻に出演中、ひと昔前では3年B組金八先生だ。どうも私は金八先生のイメージが強いせいか、時代劇の役で鎧をまとっていてもそれをイメージしてしまう。この「今朝の三枚おろし」は、武田鉄矢が毎朝ほんの5分間に、毎週あるテーマをもってさまざまな語りを展開する番組だ。その独特の先生口調でテーマ(ネタ)を見事にさばいていくから、私を含め聴者はどんどんそのまな板にのったネタの行方に引き込まれていく。そんな中、昨年末ごろの話になるが、「健全な肉体に狂気は宿る」という本を読んだ感想が、まな板の上にのったことがあった。そのネタに思わず始めは耳を疑った。「健全な肉体に健全な精神は宿る」ではなかったかと。興味津々聞き入ると、なぜ人に狂気が宿るのか、なぜ生きづらいのか、次々とその正体を見事におろしていったのだ。その手さばきに感化されたことや、その題名に興味がつのり、早速手元にその本を取り寄せた。
仏文学教授で武道家という内田樹氏と、都立病院精神科医の春日武彦氏という一面異色とも思われる二人の対談がまとめられたその本に早速答えを探した。なぜ、狂気は宿るのか。ところが次第に、本の内容よりも、読んでも見逃すような行間を、武田鉄矢が分かりやすく言葉にしていることに改めて先生と呼びたくなった。それはむずかしい仏教書物や聖書などをひも解いて語るのに似ている。どんな素晴らしい真言や書物を見聞きしたとしても、その身の丈までしか理解できず、頭で理解しても体感しなければ、その深みに入っていくことは出来ない。その深みが、分かりやすい言葉となって、周りに共鳴を与えるものになるのだろう。当然私の身の丈で解釈させて頂くのだが、共感した部分を記すことをお許し願いたい。
その書物の中で、人間が精神的に健康でいられるためには、自分を客観的にみられること、中腰の姿勢で耐えられること(ちょっと待ってみるということができる)、自分だけの世界を持てたかどうか、未来に対する取り越し苦労をしないこと、あたまに聞くのではなく、からだに聴くこと、などが大切だと語っている。では狂気が示す意味を私なりに結論付けると、体感せずに頭を通して理解しようとするその理屈が、肉体の信号を無視して暴走することをいうではないだろうか。あらゆる情報が無尽蔵に流れる中、私たちはついつい頭ばかり大きくなって、その道の専門家ほどの知識を持つようになっている。その知識や理屈が邪魔をし、肉体とのバランスを崩したとき、そこに狂気は宿ると感じたのである。
時代のスピードはますます速度を増している。ゆとり教育とはいうが、受験戦争も今や中学から始まるときく。企業も即戦力を必要としている。競争が激化する中で、さらに精神と肉体のバランスを保つのは難しい。中腰の姿勢は、つからいかもしれないが、ちょっと待ってみる心のゆとりは持っていたいものだ。
ふと目を留めると、いつしか桜が春を告げている。木々が茂った小さな庭にひっそりとつくばいが腰掛けている。竹から落ちる雫が四角にえぐられた石の中心に吸い込まれていく。銭型水鉢には四文字刻まれている。「吾唯足知」。ささやかな空間にもゆとりを残した過去の精神は、中腰の姿勢の大切さを説いていたのかもしれない。

「健全な肉体に狂気は宿る」内田樹氏、春日武彦氏 角川書店