葉っぱ 非まじめのすすめ?

2006年1月1日

旧年中もひとかたならぬご用命を賜り、スタッフ一同心から厚く御礼申し上げます

もうかれこれ10年以上も前に親しい方からおすすめ頂いた本がある。何度も読み返したせいか、今でも記憶に新しい。その本は、ロボット工学の第一人者で、毎年お馴染みとなった全国の高校生がアイデアを駆使して競い合うロボットコンテスト提唱者の森政弘氏が書かれた「非まじめのすすめ」だ。ロボットを作ることでの面白いエピソードが紹介されている。人間の行っている行動を再現してみようとすると、何と人間の動作は一つ一つが、難しく、大変な作業をしているのか気づいたという。手の五本指をロボットで再現しようと研究すると、その機能のすばらしさに朝から晩まで研究になるそうだ。指は5本ついているが、それぞれ長さが違う。長さが違うことで、ペンを持つことや、水をすくうことができる。5本より多いと邪魔で仕方がないらしい。あたり前と思っている動作をロボットで再現しようとすると、指の長さがそれぞれ違うからこそ生きていられるという造物主の設計理念が分かってくると語っている。
面白い非まじめのたとえを紹介したい。ポケットから出した1円玉、これは丸か四角かと尋ねられれば、当然、丸と答えが返ってくるものと思う。しかし、それを正面から見ずに側面から見たとすれば、長細い四角にも見える。丸いと同時に四角と見えるこの矛盾をのみこめる心が非まじめ発想というのだ。迷い、対立、けんか、いがみあい、戦い、しっと、うらみ、卑下、優越感などなどもろもろの苦しみは、「丸は丸であって四角ではない」と、1つのものしか見なくなる。しかも違った角度で見るゆとりもなくなって、かたくなに思いつめる心の狭さからおこるものであると。何気なく目にしている街並みも、高い所から見下ろせば、また違った景色が眼前に広がる。そんな精神が大切であるという。
なるほど普段、あたり前のものの見かたしかしていないと、ついついこれはこういうものだと決め付けがちになる。先程の手の話ではないが、動くのが当たり前だと思っている。体もそうだ。感謝なく使っていれば、動かなくなったとき、もっと労わればよかったと思うかもしれない。
さまざまな問題や、行きづまりは、ただ単なるぐうたらな不まじめや、頭から湯気を立てるようなまじめさでは乗り越えられない。それを超えた「非まじめ」発想で解決できる。何やら仏教問答の書物の紹介と思われるかもしれないが、悲惨な事故や事件が蔓延し、世間が硬直するなかでも、ゆとりをもって生きていける新年にすべく、非まじめ発想を大きく警鐘したい。
本年もよろしくお願い申し上げます。