葉っぱ 断食のすすめ

2015年1月3日

 年末に2回ほど寒天断食をした。寒天の原料であるテングサには、海藻のすぐれた水溶性繊維が豊富に含まれているため宿便排出をよりスムーズに促すそうだ。その棒寒天1.5本に3合の水に浸し、黒糖かはちみつで甘みを30g加え、火を通して冷めて固くなる前に食べる断食法を寒天断食といい、黒砂糖などの甘みは腸に潜んでいる悪玉菌をおびき寄せるのが利用目的の一つとされている。
 断食などしていると、その理由を尋ねたくなるのが人情で、病気か体調不良の方以外は普段あまりお目にかかることがない。ちなみに今回は飲み過ぎに依る体調不良でもなく、体からその要求があった。しかも嫌いな寒天を自ら選んでいた。
 断食の一回目は冬至の新月の日に、2回目はその翌週に行った。2回立て続けにしたため、2回目には様々なことを客観的に感じることができた。それは以前、座禅で体験した感覚に近いものだった。 かれこれ20年以上も前になるが、覚王山の日泰寺で毎年行われている涅槃会報恩摂心という5日間の修行に参加させていただいたことがあった。お坊さんに混じって座禅を組み、食事をいただき、掃除から就寝までほぼ生活を共にする体験だった。2月の一番冷え込む早朝の3時ごろ起床、座禅は食事と15分休憩以外は4時から延々夜の9時まで続いた。暖房は薪を焚いてるところが一か所だけで、寒いし足は痛いし腹は減る。しかもしゃべることも出来ないから頭を巡ることはどうでもいいことばかり。よくいう煩悩の固まりが頭を支配する。自分が自分を呆れるくらいくだらないことばかりがふって湧いては消えていく。それが不思議なもので2日、3日と経つと、それも出し尽くしたようにほんの一瞬平穏な空間が目の前に広がることがあった。その時が生まれて初めて自分と向き合った体験ではないだろうか。 この座禅の経験が、断食をすると今でも蘇ってくる。断食も、たった一日のことなのに、ふとコーヒーやクッキーなどが頭に浮かんできたり、今日の酒のつまみは・・などと思ったりしている。はじめは頭の生み出す欲に体が反応して大変だが、そのうち空腹感が心地よくなってくると体も頭もその欲から開放されたようになり、自分の体がより身近に感じる。食を断つことと座禅とは、共に身を削いで行をするという意味で響きは同じなのだろう。
 一般的には一日3食食べるのも当たり前なら、自分の行動や考えも自分が気づかなければそのまま通り過ぎて行く。そうすると人間は自己中心的な考え方になりがちになり、食べ物も偏り、その貪欲さがいつか大きな山に成長していく。それが品物の山にやまいだれの「癌」という文字に表されている。世界でその癌が減少傾向にある中で、日本人は癌の割合が3人に1人とますます増えている。一世帯に一人が癌で亡くなっているのだ。これは正にこの文字通り、多くのものを抱えこんで病気になっている日本人の姿だと言えはしないだろうか。
 年に一回のお正月、それに水を差す気持ちはさらさらない。輝かしい新年だからこそ、自らを立ち止まって振り返ってみるのに、若者は自分の挑戦のために、そして私より先輩の方々は健やかにおいるために断食をあえてオススメしてみたくなった。
 流水は腐らず 流れる水は腐ることなく、常に新しく、魚もまた住むことができる。これと同じように人間の精神と身体も、たえず不断に動かして鍛錬することによって若々しさを保つことができる。

皆様のご健康とご多幸を祈願します。