葉っぱ a thousand winds

2007年3月1日

 テノール歌手の秋川雅史氏が歌う「千の風になって」が、先月、オリコンのシングルチャートでクラシック系のアーティストでは初めての首位になったという。昨年のNHK紅白にも出演したそうだが、世間で騒がれていても、興味がないとは不思議なものだ。メロディーを聞いたことがあったくらいで、その歌にまつわる詳しいことは知らなかった。その詞は、アメリカが発祥とされているが、作詞者も不明。近親者の死、追悼、喪の機会に読み継がれて来た有名な詩を、日本では新井満氏が訳詩をつけたという。米国9・11の同時多発テロで、父親を亡くした11歳の少女が一周忌に朗読したことで、より知られるようになったそうだが、つい最近になって、初めてテレビでその歌を始めから終わりまで聞く機会を得た。聴き終わって、ふと疑問が頭をよぎった。確かに人の心を揺さぶる曲だが、今一番ヒットしているという現象が、事実ながら腑に落ちない。故人が語る詩を、ふだん聞きなれないテノールで、しかもメジャーな歌手が歌っているわけではないのだ。過去にこのような形で、茶の間に受け入れられたことがあっただろうか。また、原語の詩に、千の風・・a thousand windsとあるが、これはどういう意味なのだろうか。決して穿った見方をしている訳ではないが、自分なりに落としどころを見つけたかったのかもしれない。いろいろ調べたところ、分かる限りで、一つだけこれではないかという答えに行き着いた。仏教でいう千手観音菩薩の、その千という意味が、「無限の意味で、無限の慈悲ですべての人々と生き物を救うことを表わす」とあったのだ。a thousand winds 本当の意味はどうであれ、この言葉が、世界の垣根を越えて、今、我々の前に、一つの旋律となって受け入れられている。
 話しは変わるが、映画「千と千尋の神隠し」をご覧になった方は多くいると思う。その内容は千尋と両親が、バブル時代の遺物であるテーマパークに迷い込んだことから始まる。ある露天先に多くの料理を目にするのだが、そこに店主はいない。後で金さえ払えば良いといって勝手に食べ始めようとする両親に千尋は困惑し、注意を促すが、そんなことはお構いなしに食べ始める。
地団駄を踏んで抵抗するが、むなしくその場から去る千尋。不安になって後で戻ってくると、なんと両親は豚になっていたのだった。両親を救い、しかも迷い込んだその異次元で生きるためには、魔法をかけた魔女が経営する油屋で、汗水流して働くのが唯一の手段だった。その希望はかなったが、千尋の一字「尋」を魔女に取られて「千」という名前をつけられた。八百万の神が体を休めるために集う油屋で働く千。物欲はそんなところで働くものたちをも支配していた。欲や金品に群がるものがいる中で、一人黙々と両親を助けたいと一心で働く千。そんな健気な真心が通じて、とうとう両親の魔法が解けるのであった。時代が生みだした物質欲の成れの果てと、相反して失われようとしているひたむきな、無垢な心を、一人の少女を主人公に表現したこの作品は、国内の賞を総なめにしたのみでなく、アメリカにおいてもアカデミー長編アニメ賞を受賞するなど、多くの反響をよんだ作品となった。
千という言葉が結びつけたこの二つの事柄に、強い磁力を感じながら、無理やり双方を結び付けようとしている。多少強引だが、和洋を超えて、人々に深い感銘を与えていることは事実だ。
そして、それは、長い間かかった和洋の雪解けを感じずにはいられない。それは、物質欲の成れの果てが分かったもの同士なのかもしれない。