葉っぱ 記憶の風化

2001年6月1日

高校時代読んだ本の中に「砂の器」(松本清張著)がある。好んで読んだというよりは、友人から薦められて最初は仕方なく読み始めたといったほうがいい。ところが、ページをめくるにつれてサスペンスを伴った内容に引き込まれて、気がついたときは徹夜で読破した印象深い本の中の一冊となった。
最近、親しい方からの強い勧めで、映画化されたそれを見た。30年程前に作られた映画とあって、刑事役の丹波哲郎や森田健作など、若々しい姿で登場していた。映画は、東京国鉄蒲田駅の惨殺死体発見のシーンから始まる。見始めると徐々に過去に読んだ記憶が蘇ってきて、登場人物が自分の描いていた人物と重なり合っていった。捜査がすすんでいくにつれて一体なぜ殺人をせねばならなかったのか?肝心の核心部分を思い出せないまま目が離せないでいたのだが、刑事が犯人の生い立ちを追い始めてから記憶の点と線が結ばれた。この映画のクライマックスである後半の40分は、そのほとんどが犯人の幼少時代の回想シーンで占められている。父親がらい病に感染したことから母が家を出て行き、父親と残された子も村を追われる。痛々しいまでの差別や偏見にあいながらも各地を転々とする父子。その痛みを癒すかのような、あまりにも美しい四季の移ろいがスクリーンに展開される。
過去と断絶をして、時に有名な作曲家となった人間の保身が殺人を犯す動機となるのだが、この映画は単なるフィクションとしてでなく、時代の裏側に押し込まれた問題を浮き上がらせたことで、現実の問題として迫ってくる。
らい病によって引き起こされる慢性の細菌感染症であるハンセン病。主に、末梢神経と皮膚が侵されるなどの症状が発現するのがこの病気そのもので、死にいたることはない。昭和18年に特効薬プロミンが開発されることで、以降速やかに治癒する病気となったはずが、近年まで「らい予防法」が廃止されなかったことは驚きである。
先日、ようやく熊本地方裁判所におけるハンセン病国家賠償請求訴訟の判決で、国の敗訴が確定した。これを受けて現政府が超法規的な政治決断により、全面的な解決に向かって動き出そうとしている。砂で作った器のように、形は風化してなくなろうとも、記憶の風化をさせてはならない。また、砂で作ったもろい器は、いくら装飾を施そうが、かすかな衝撃でもろくも崩れさることを、この映画は語っているように感じた。