リマクッキングスクール(初級講座)へ
2011年9月1日
去年から頭をかすめていたことがある。ここ数年で、自分の味覚ははっきり変わった。その味覚を変えさせたのは、カフェで作るスタッフの料理だ。15年もほぼ同じ食材や調味料を使ってきて、今更ながらに思うのだから間違いない。そこで、これほど体調が良くなる料理法があるなら一度学んでみたいという思いが強くなってきたことである。実際に作ることで体感することは沢山ある気がするのだ。しかし、思いはあってもこればかりは状況が許さない限り難しいと思っていた。ところが、お盆をはさんで約1週間の初級料理講座が大阪で開かれるという。店を留守するにするのは4日間だが、心温かいスタッフ皆の協力もあって、開店以来始めて長期の休みをとって参加することができた。
「人間一生の吉凶は皆ただその人の飲食による。恐るべきは飲食である。慎むべきは飲食である。」この端的に真理をあらわす言葉は食養家であり日本一の観相家といわれた水野南北が語ったとされている。出来そうでできない重々しい言葉だが、飲食というまさにこの単純作業の繰り返しが、人に与えられた唯一の自由なのではないだろうかとつくづく思うのだ。お金を持っている人でもそうでない人でも、美食しようが、粗食にしようが、食事だけは誰にとやかく言われることはない。自らの選択で自分の身を養っているのである。しかし一生にすると膨大になるその日の一食一食が、健康な生活を送れるかどうかの大きなカギを握っているとしたらどうだろう。この平等にある自由な権利のふるまいで、一生の吉凶が決まるのは当然であり、運命など、誰恨むことない自分自身が決めていることになる。
集中して勉強するのは何年ぶりだろうか。さすがに慣れないことに体がついていけないのか、もしくは学生時代の癖が残っているのか、初日から頻繁に襲われた睡魔には閉口した。しかしこれも意味のあることだったことに後で気づいた。圧力釜、土鍋、電気釜による玄米の炊き方や、穀物7:副菜3の割合で作る一汁一菜。そして食材と向き合うことは、食材が持つ香り、味、変化、音、無意識、という五感を使う。そうすると、今までにない感覚が、体に芽生えてくるのが分かった。生きることに一番直結する感覚を体験してるのである。基本を2日間しっかり体験したことで、体の変化に気づき始めた。特に変化を増長させたのは、よく噛むことだった。早食いの私には特に耳に痛い話だったが、講師の先生に、一口100回を毎食1回だけでも、一年続ければ大変な回数になると言われて、その大切さを痛感したのだ。それを毎食実践していると、自然に噛む癖がついてきた。そしてそれぞれの食材が持つ甘味を感じられるようになった。今までのようにあまり噛まないで食べていると大雑把な味しか分からない。そのため脳の満腹中枢がなかなか満足しないので、どうしても必要とする量より多く食べてしまう。しかも雑に噛んだ食べ物は、十分な唾液が出ないために消化不良をおこし、吸収が細胞に行き渡らない。それが空腹を呼ぶのだと体の感覚で感じた。それを証拠に3日目になると、眠くならないし腹はすかない。俄然物事に集中できるようになったのだ。味覚をはじめとして五感が感覚が鋭敏になった。何より調理をすることで、食材が持つ香りの変化を楽しめた。調理とは、調味料で味を付けることではない。食材が持っている命を最大限活かして頂くための方法なのだ。それを証拠に台所の語源は、平安時代の台盤(食物を載せるための脚付きの台)とも、人間の根幹たる胎盤ともいわれたそうである。そして江戸時代まで、御台所(みだいどころ)が、大臣・将軍家など貴人の妻に対して用いられた呼称に使われていたことも、いかに命を産み出す場と考えていたことが伺える。それを認識できた貴重な6日間だった。