
メディアの終焉
2026年6月2日
先月24日の中日新聞二面に、大きな見出しで「鉛製給水管がまだ少なくとも3300Km残っている」という記事が掲載されました。「健康被害の恐れがあるから交換が急務だ」と書かれています。これだけ見ると、「えらいことだ、自分の家はどうなっているのか」と不安に苛まれる読者も少なくないでしょう。しかし、この問題は今に始まったことでありません。すでに1989年、今から30年以上も前に、旧厚生省が自治体向けに通知していた事柄なのです。しかも当時、一部のテレビ番組がこの問題を取り上げており、私はその内容を録画して今も保存しています。健康に甚大な被害が予想されることを、その番組は強く訴えていたからです。その内容は「水道管に鉛管が使用されている場合、長時間滞留した水に微量の鉛が溶け出し、体内に蓄積すると鉛中毒を引き起こすリスクがある。症状
としては、めまいや強い腹痛、貧血、神経障害などが挙げられ、特に胎児や乳幼児の脳・神経の発達に深刻な悪影響を及ぼす恐れがある」というものでした。その番組が特に参照していたのが、アメリカの事例です。アメリカではかつて鉛管が広く使用されていましたが、その危険性が認識されて以降、法律により新設が禁止されました。しかし
古い住宅や水道本管には依然として鉛管が残存している地域があり、水質の変化、たとえば酸性度の高い水の使用によって鉛が溶け出しやすくなり、ミシガン州フリント市の水質汚染危機のような大規模な公害を引き起こした歴史があります。その時の日本のメディアは、こうした海外の教訓を踏まえて警鐘を鳴らしていたのです。
あれから30年が経った今、ようやく全国紙がこの問題を「急務」として取り上げる。果たして、これをジャーナリズムと呼べるのでしょうか。かつてメディアの役割は、権力や行政が動く前に市民へ情報を届け、問題を社会に問うことにありました。しかし近年、SNSやインターネットによって情報の流通は劇的に速くなりました。必要な情報は、官庁の発表や研究論文が公開された瞬間に世界中へ拡散される時代です。その中で既存メディアがすべきことは、速報性ではなく「深さ」と「責任」のはずです。ところが現実には、問題が行政によって「公式に認知」されてから初めて記事にする、いわば”後出しジャンケン”が常態化しているように見えます。まるで、万が一誤りがあっても「行政発表に基づいた報道」という盾で責任を回避できるよう、慎重に間合いを計っているかのようです。今回の鉛管問題はその象徴といえます。愛知県に至っては、鉛製給水管の残存状況を「把握していない」という回答だという。行政が把握していないなら、メディアが独自に調査し、問題を掘り起こすのが本来の使命ではないでしょうか。30年前にその萌芽はあった。しかし、社会が動かなかったのは、メディアが問題を継続して追い続けなかったからでもあります。情報があふれる時代だからこそ、メディアには「何が本当に重要か」を見極め、時に行政より先に、時に世論より先に声を上げる覚悟が求められます。その覚悟を失ったメディアに、存在意義はあるのでしょうか。


参考写真は読売新聞オンライン 鉛製給水管、知らぬ間に血中の鉛濃度が平均の100倍に…中毒に苦しむ男性「まさかと思った」
