再会
2010年2月1日
昨年の暮れも押し迫ったある日のこと、ふとした一本の電話が、もう40年近く前のことになる幼い頃の遠い記憶を蘇らせた。それは、その時死んでいたかもし れないほどの大怪我の断片的な記憶だ。当時一緒にいた友人が後々語ってくれた話しでは、いつものように遊びに出かけた帰り道、社宅の際にあった狭い崖伝い を、友人の止める手を振り切って進んでいったという。崖の下は側溝があるコンクリートだった。体がぐらっと揺れた瞬間、まっ逆さまに落ちていったと。その 彼が大声で泣いて近所に助けを呼んでくれたそうだ。最初の記憶は、その後頭から血を流して病院に運ばれているタクシーの中にある。頭から吹き出す血を、母 親が必死で拭いている白黒の映像だ。何が起こったのか全くわからず、ただ泣き叫んでいた。搬送されたのは近くの外科病院だった。そこで院長先生の手早い処 置のあと、すぐに東市民病院に搬送されたらしい。次にある記憶は、病院の白い壁と、大勢の白衣を着た看護婦さん、その中央には手術する先生らしい人、全員 マスクをして物々しい雰囲気の中、ジュースを手渡され、よろこんで飲んでいる映像だ。その後の記憶がないことから、手術のためにジュースの中に麻酔が入っ ていたのかもしれないと思ったりしたものだ。一番最後の記憶は、最初に搬送された外科病院で手術も無事に終わって入院している光景である。ここで完治する まで3ヶ月ほど入院していたらしい。この入院期間は、居心地がよかったのか、同室の患者さんとの思い出が、かすかに残っている。長い入院生活で、院長夫妻 にも子供のように可愛がられたためだろう。退院後も、何かあるとそこに訪れる習慣は中学生まで続いたのだった。当時の名医と呼ばれた先生を紹介してもら い、手術してもらったおかげで、後遺症もなく治ったことに感謝しろと、ことある度に母親から言われた。確かに、その時の的確な処置がなかったら、その先生 に手術してもらわなかったら、などの多くの偶然が重なって、不自由なく生活しているこの当たり前なことに、今更ながら感謝の念に堪えないと思うのである。
長い間訪れていない、遠いようであまりにも近い場所であるその外科病院は、自宅から車でわずか15分のところにある。院長が亡くなられたことを、ずいぶ ん前に聞かされていたが、その後は廃院となり、その場所に今も姿を残している。一本の電話とは知人からの仕事の依頼だった。近くだからお願いしたいといわ れた依頼先を聞いてみると、何とその院長婦人だったのだ。あまりにも懐かしい名前のために、仕事のことは頭からすっかり離れていた。その後面会叶い、次第 に記憶のなかの面影が現在の姿と重なって、懐かしい気持ちがこみ上げてきた。お話しを伺うと、医療に依存する生活で体調を崩し、長年苦しんだという。しか しその後、食の大切さに気づき、正すことで徐々に元気を取り戻しているということだ。これからは、あなたが新鮮な野菜を持ってきてくれるから安心して食べ れるわと、笑みを浮かべながら話された。思わぬ再会は、今度はこちらが恩返しをする機会を与えてくれた。幸いにも、食を通してのご縁の再開である。