今年を振り返って
2010年12月1日
早くも一年が過ぎようとしている。思えば昨年暮れの政変からなだれこむように新年が始まった。沖縄問題から、検察の不祥事、検察審議会、裁判員制度、周辺国との確執など、たまりにたまったツケを清算しようにも、もはや平和ボケに浸りきった面々では、修復不可能に思える。その中でも一点の光を見出せたとすれば、一人のサムライの存在だろう。マスコミ騒動の中でブログにアップした内容を以下に掲載させていただく。
「大海原を職業とする海上保安庁。その仕事を広く知らしめたのは、今も放映中で大ヒットシリーズとなった「海猿」にちがいない。映画はその中でもエリート中もエリートの潜水士にスポットが当てられているが、どちらにせよ、あたり一面海また海の自然相手の一方で、海上の安全および治安の
確保を図ることを任務とする命がけの仕事だ。その海上保安庁が、別の意味で注目されている。尖閣諸島沖で起きた中国漁船衝突の映像流出事件である。それが連日のようにマスコミを騒がせている。しかし、どのメディアも核心の部分には何一つ触れず、犯人探しのオンパレードだ。本来ならば内部
告発にも似たスクープである。犯人は誰だという言う前に、各社寄ってたかって情報を奪い合い、流出した情報を精査し、確かな情報ならば、広く国民に問うのがメディアの役割ではないのか。いつから政権と一緒になって情報を隠蔽するようになったのか。まるで大本営発表を毎日聞いているようである。大きな見出しで書けないストレスを、系列の週刊誌で小出しに暴露するような姑息なやり方ばかりが目に付きはしないだろうか。そう思うと、辞職覚悟で国民に知らしめる行動をとったこの一件は、胸のすく思いがするのである。
江戸幕府の瓦解がつい頭をよぎる。長い安泰の時代の末の姿だ。知らしめず、寄らしめよ。国民は何も知らなくてもいいという支配構造である。お上の威厳で、よきに計らうはずが、一国を崩壊へと導いたのである。世界のあらゆる情報がインターネットで配信される時代に、それをいいように編集して、雁首そろえて国会で討議している姿はあまりにも滑稽すぎるではないか。この行き着くところが結局、幕末最期の姿と重なるのである」
もはや修復不可能とは、寄らば大樹の陰、みんなで渡れば怖くないの責任転嫁の体質である。ここ名古屋の民意46万票も、どこからともなく現れた委員会が無効と裁判所のように裁定を下すのも、変化を望まない力の大きな象徴ではないだろうか。そして、民意を代表して運営に携わる代表者面々である。本来ならその声に耳を傾け、意見をすり寄せるのが当然の役割であろうに、まさに他人の空ごとである。その小さな縮図が、国という大きな縮図そのものになっている。
そんな中で、海猿のあたえた大きな一撃である。職務を超えた、人としてどうあるべきかという思いから発したこの行動に敬意を表したい。そして、そのことが、高杉晋作の騎兵隊ように、一般人の一人一人の心に伝染し、維新の幕開けになる新年になることを期待したい。