伝説のコンサート
2022年7月1日
昨年の暮れごろ、たまたまBSのテレビ欄で目にしたスペシャル番組「伝説のコンサート、松山千春」を、懐かしさもあって見始めたら、坊主頭にサングラスという奇抜なその容姿が語るような劇的な半生で、最後まで見てしまいました。
デビューして45周年。アラ還(アラウンド還暦)の方ならよくご存知でしょう。私がまだ小学校6年か中学に入った頃に「旅立ち」で鮮烈デビュー。その後「季節の中で」は当時の人気音楽番組、ザ・ベストテンで1位を獲得するもののスタジオには現れず、コンサート会場からの生中継でした。しかも、テレビ出演拒否という思いを切々と語ったことを、今でも覚えています。
共時性とでもいうのでしょうか。たまたま新聞の片隅に名古屋コンサートの案内を見つけました。なんとその日に友人からそのチケット申し込んだから行こうと誘われました。
しばらくぶりのコンサート会場は、熱田のセンチュリーホール。開場前からアラ還男女で埋め尽くされていました。席は3階の2列目。縦に長いホールは、階段の傾斜がきついめ、歩くのに注意が必要ですが、その傾斜のためか、ステージの見え方は、前の人が気にならず見やすかったです。
往年のヒット曲を歌いながら、時折爆笑トークをはさむために、時間があっという間でした。印象に残ったのが、デビューに送り出してくれた恩師、竹田さんのことを切々と語ったことでした。その内容は、BSでも取り上げらていたため、より強い印象が残ったのかもしれません。
十九歳の時に、全国フォーク音楽祭の北海道大会で惜しくも落選。ところがその時の審査員の一人が、STVラジオのディレクターである竹田健二さんでした。竹田さんは彼の才能を見抜き、自分が担当するラジオ番組に起用。毎週2曲、新曲を作って紹介する『千春のひとりうた』というコーナーを持たせました。自宅からそこまで片道5時間半かかったそうですし、毎週新曲を作るんですから大変なことですが、それをやりきったというのが、やはり人並み外れていますね。その後、レコードデビューをさせようと会社を説得するも、ポップス全盛期にそぐわないと反対されたため、自分の早期退職金を使ってまで出したいと会社を説得したそうです。そして世に送り出した曲が「旅立ち」でした。
その後、全国にコンサートツアーが始まり、順調かと思われた矢先、竹田さんは、36歳の若さで心不全のため亡くなったのです。その当日もコンサートに一緒に向かう予定だったため、コンサートをキャンセルしようとする千春さんに、竹田さんの奥様が、コンサートに行くことをきっと主人も望んでると説得し、コンサート会場では、アンコールに答えて竹田さんが亡くなったことをファンに伝え、号泣しながら「旅立ち」を歌ったそうです。
47年経った今も、こうして伝え続ける千春さんの生きざまにとても共感しました。そしてそういう人柄ゆえ、テレビ出演を拒否し、コンサートに集う仲間を大切にするからこそ、今もこうしてファンに囲まれているんだと納得しました。素晴らしい生き方です。
最後に千春さんが竹田さんに怒られたエピソードをご紹介します。
「竹田さんに言われたもんな。九州、福岡から長崎に行く時に、列車の中で、デビューしたばっかりの頃な。キャンペーンみたいなかたちで行ったんだよ。その時に、ラジオ局のディレクターだった竹田さんがさ、一緒にくっ付いてきてくれて。列車の中で俺、漫画の本を読んでたんだよ。
そしたら竹田さんに怒られてさぁ。
”お前、何やってんだ!お前、プロになったんだぞ。こうやってな、北海道の人間が九州に来られるのも、プロになったから来られたんだろ。そしたら、今度帰って、みんなに話しをしたり、ひょっとしたら歌ができるかもしれないし。一分一秒でも無駄にするな、この景色を見ておけ。この窓の外の
景色を見ておけ。停まった駅で、どんな人が降りて、どんな人が乗って来るのか、ちゃんと見ておけ”…怒られてさぁ…。」