被爆を超えて
2012年11月1日
一度ブログで紹介した内容を、もう一度書き留めたくなった。それは9月末に行われる東京でのイベントに行くことを決めて連絡をしたときのことだ。ちょうど同じ日に平賀佐和子さんの講演会があると教えられた。被爆体験者という以外、あまり詳しいことを知らなかったのでそちらも参加することにした。10時から始まるため7時台の新幹線に乗らなければならない。まだ刺すような日差しでうっすら汗がにじんでくる中を急いだ。
現在76才とは見えない若々しい姿が会場にあった。とても被爆した人とは想像がつかなかった。過去に見た痛々しい写真をつい思い出してしまう。幸い軽い被曝で済んだのだろうか。しかし話しが進むうちに被爆の惨状が生々しく語られ始めた。原爆被災者となったのはまだ9才の時だったそうである。爆心地から2km以内のところで被曝し、その爆風で中二階までふっ飛ばされたらしい。気を失って気がついた時には周りは火の海で、しかも爆発の熱で周りの家々が自然発火していくというのだ。想像もつかない灼熱地獄の中、よく命があったものである。半狂乱になりながらもようやく家にたどりついたときは、衣服も焼け焦げ全身大火傷の状態だったというからいかにその熱がすざじいものだったか。その火傷を癒すために水をかけるとあっという間に水ぶくれになり、その水泡が膨れ上がって体からはみでるくらいただれたという。それがやがては膿みだし、体中に蛆がたかってその蛆を取り出したことを他人事のように冷静に語る語尾に憎しみや苦しみの感情はこもっていない。しかし坦々と話すから逆に身震いがしてきた。やがてその火傷跡はケロイド状に黒く盛り上がったそうである。家を失ったためにその後父親の里に落ち着いたが、被曝の姿に馴染みのない疎開先でその姿に対するイジメがあったというから何とも切なくなる。自分がその立場だったら、果たして真面に命を守り続けられたかどうか自信がない。平賀さんの前向きな所は、そんな境遇の中でもこの恐ろしい原爆について知るために広島大に進んで放射線のことについて学んだことだ。その後、高校の物理の先生になったことから一転して運命が動き出す。先輩の先生から誘われたのが桜沢如一氏の講演会。肝臓の働きまで悪化しはじめて、顔に吹き出物がいっぱい出ていた頃だったそうだ。誘ってくれた先生と桜沢先生に挨拶に行くと、「汚い顔だね~」さらに、「このままだと、3年以内に死ぬよ」と言われたというからあまりにも強烈だ。しかしそれを聞いて実践したのが、七号食(玄米とごま塩のみ)。味噌汁も飲まず、通常10日くらいで一区切りするところを一ヶ月続けたという。すると奇跡的にケロイドが癒えていき、体がどんどん軽くなっていくのが分かったと、その時の変化を話された。これしかないと思って続けた結果が、その後同じ学校の教員の人と結婚し、お子様7名、お孫さん14名の大家族を持つに至った。食生活は今でも玄米にお漬物、季節の果物程度だそうである。それが何より美味しいと語った。
不思議でならなかったのが被災された直後のこと。全身大火傷を負ったにもかかわらず軌跡的に助かったことだ。その時のことを振り返ってお話しされたことが大変重要なことだった。当時、配給されたものが梅干が入ったおにぎりだったそうである。その中でも梅干しをやたら欲しがり、いつも余分に梅干しを分けてもらっては口にして、その種を割って仁まで食べたそうである。極陽性で排毒作用のある梅干しを食べ続けたことで、放射性物質の極陰性を中和してくれたのではないか、体験したから説得力のある言葉だった。
本来なら生育を促す放射線。何でも過ぎたるは及ばざるが如しで、多量に浴びたために生命の危機に晒された。そのとき塩を含んだ梅干しによってその命が守られた。本能が自然に欲するもの、ホメオスターシス(体内恒常性)に素直に従ったために命が救われたのだ。そしてその柱となる食事がいかに大切かということは言うまでもない。