喰う
2011年11月1日
2年ほど前からツイッターをしている。鳥がさえずるのを英語でツイートと言い、それが「つぶやき」と意訳されたので、ネット上でつぶやく人達といった意味になるだろう。自分のつぶやきを投稿したり、個々の利用者のつぶやきを閲覧できるコミュニケーション・サービスである。自分がこの人だと思う人を探してフォローすれば、勝手にその人のつぶやきを見ることができる。ちなみに私は一時期オバマ大統領をフォローしたことがあった(笑)。逆に自分がフォローされると、相手に自分のつぶやきが公開されることになる。国境のないあらゆる言語のつぶやきが集まる情報サイトである。限られた文字数(140字)の中で繰り広げられる情報交換、そのつぶやきが、時に人を動かすこともある。
当初は好きな外国人アーチストをフォローして半分英語の勉強と思って始めた。翻訳ソフトと検索サイトを駆使しての意訳と英文作成、始めは恐々つぶやいていた。しかしだんだん慣れてくると楽しくなるものだ。いつしか日課となっていた。フォローする人が増えていくうちに交流が始まり、アムステルダムやニュージーランド、ロンドンなどにその輪は広がっていた。普通では体験できないことが、パソコンや携帯で手軽にできる時代なのである。アメリカ全土に広がろうとしているデモや、世界各国でおこっている民主化の波が大きくうねりを上げているのも、メディアが報じない情報を、簡単に入手できることはもちろんの事、そこで交流が始まるからだろう。
大震災の最中、メディアから流れる情報が極端に偏っている中でもインターネット上ではさまざまな情報が飛び交っていた。その中で偶然にも目を引いたのが「正しく恐れる」ための放射線知識と題した日経ビジネスオンラインの伊東乾さんの記事だった。だれにでも分かりやすく解説している原発事故の記事は、数少ない貴重な情報源となった。しかも読者に対して疑問や不安に思うことはツイッターへと導いていたので当然多く相談が寄せられていたが、それにも丁寧に答えられていた。これこそ、その時自分に一体なにができるかを考えて実践されている一つの姿だろう。その真摯な姿に共感を持ったことはもちろんのこと、驚いたのは経歴だった。当初大学の先生か研究者だと思っていたのだが、なんと音楽家!作曲家であり指揮者だった。東京大学大学院物理学専攻修士課程とあるから、原子力工学にも精通しているため、必要な情報を必要な時、しかも分かりやすく配信してくれていたのだ。この方をフォローしたのは言うまでもない。今までに何度かツイートの交換をさせていただいたり、最近出された著書を拝見しながらふと感じたこと、それは学問を修めるという意味を知ったことだ。今まで考えたこともなかった。はたして自分は自信を持って正確に人に伝えられることのできる何かを持っているだろうか。勉強しただけでは、難しい話しを理解させることは困難だろう。修めるからこそ、紐解いて話しもできれば専門的にも語れるのである。本来学問とは修めるものであり、そのために勉強するものなのだ。
10月中旬、秋の紅葉が遠く感じられる景色を見ながら伊丹駅に降りた。伊東乾さんが音楽を担当する劇団態変の「喰う」に参席するためだ。「今ご一緒している態変は役者全員重度の身障者で動けない人、手や足がない人などいろんな人の動きを生で感じながらその場でピアノを弾いています」というツイートが脳裏から離れなかった。柔らかな音色にあわせて演技が始まると、今まで見たことのない世界に引き込まれた自分がいた。障害をさらけ出しながら、四肢を使った力強い動きが披露されて行く。自分の弱みをあけっぴろげに表現することで自身を解放しているかのようだった。誰もが大なり小なり弱みを抱えて生きている。死ぬまでそれを抱えていけるのだろうか。この人達は、大きなリスクを抱えながら、そのリスクを向き合うことで、それを解消している。四肢を精一杯動かして表現をしながら、身体のリハビリをしている。きれいごとではないのだ。不自由な手足を動かすことは並大抵のことではない。しかし辛いからといって動かさなければ体は動きを失い、鉄のオブジェのようになる。そう思わせる2つのオブジェにぶつかりながら、交わしながらも進んでいく。それが今、生きているということなんだ。そう心に響いてきた。ピアノの音色が、オレンジ色の光となってやさしく彼らに降り注いでいた。