葉っぱ お手本のない時代

2010年6月1日

その神秘的な存在から、千数百年経った今もなお多くの人々を魅了して止まない弘法大師空海。各地に残る逸話も足跡となって、その存在感は、時空を超えて真近に迫ってくる。ベールで包まれたその足跡のかけらを、さまざま書物の中に求めたことがあった。一方で、空海は魅力的だが、密教と聞くと一般的にいかにも分かりにくい宗教である。怖いもの見たさの関心はあっても手は出さない一定の距離を持っていた。そんな時に書店で目に入ったのが司馬遼太郎の「空海の風景」だった。歴史上の人物の息づかいまで聞こえてきそうな彼の多くの作品の虜だったため、正直驚いた。彼の分野を超えているような気がしたからだ。しかし、なぜ書きたくなったのだろうかという興味が沸いてくると、もうその作品を手にしていた。当時の世界の動き、その時代に絡みつくように存在する宗教など、おかげでよく理解できた。なにより体に免疫でも出来たように、安心してその類の本に目が行くようになり、その後さらに一冊の本と巡り会ったそれは宗教書物というよりは、物事の道理を分かりやすく解くように、心地いい安堵感を与えてくれるものだった。宗教宗派を超えた根源にふれた思いがしたのだ。まさに空海の風景が描いた宗教観と同じだった。
先月、その著者の講演があることを知人から聞いた。一冊の本からの不思議なめぐりあわせで講演に参席できるご縁となった。しかも、その著者は、現在の高野山真言宗管長だった。御年81才とは思えない張りのある声で、終始分かりやすい言葉でお話しされた。以下はその内容の一部である。
過去に日本は3度の大きな節目があったという。一つは明治維新、もう一つは敗戦、そして三つ目が今であると。過去の二つは、アメリカに追いつき追い越せでやってきた。追いついてしまった現在は、そのお手本がなくなった。果たしてそのお手本でよかったのかを検証することもなかった。そのため、初めて自分達でお手本を作っていかなくてはならなくなったのが今である。しかしそのお手本は、日本人の培ってきた文化の中にあるという。それは喩えていうならチェスと将棋の違いであると。どちらも王を詰めた方が勝ちのゲームだが、駒の使い方に大きな違いがある。チェスは、相手の駒を倒したらそれで使わず終いだが、将棋は、倒した相手の持ち駒は、今度は自分の持ち駒となって戦力となる。捨てられてしまうものも取り入れてうまく活用する精神である。それは、宗教の垣根を越えて、神社、教会、お寺を上手に使い分け、違和感がないほどあらゆるものを受け入れる精神にも見られる。これが、今の世界にとって必要であり、これからのお手本であると語られたのだった。
これを聞いて、今の食文化も同じであると感じた。食物は、ありのままの状態が最も栄養価が高いはずである。しかし、見た目や彩り重視で、お米や野菜などを精米したり皮を剥くなど、不用意に物を捨てるようになった。多くのビタミンやミネラルを含む貴重な栄養源を、みすみす捨ててきたのである。捨てることによって、健康のための食文化が、いつしか偏った食文化に変貌してしまったのだ。ところが、諸外国の日本食ブームで、ようやく今、自ら持っているお手本に気がついたのである。
「医王(いおう)の目には 途(みち)に触れて 皆薬なり」(優れた名医の目から見れば、道ばたに生えている雑草の中からも薬を見出すことができる)松長管長が披露した千数百年も前の空海の言葉である。根源とはお手本である。そしてそれは時代が経ても新鮮な響きを失わないものである。