葉っぱ 峠

2006年10月1日

 秋の夜長、晩の心地よい涼風にうとうとしていたところを、役所広司がしきりに語りかけてくる。思わずハッとすると、それは時々見る番組「ガイアの夜明け」(テレビ愛知)が始まるところだった。「なぜ買収は失敗したのか?~独占取材!敵対的買収の裏側~」というテーマに、寝むけがまた襲ってきたのだが、その買収が、製紙業界1位の王子製紙が仕掛けた業界6位・北越製紙への敵対的買収と分かったため、体は休息に向かいつつも、頭だけが画面に向かって覚醒していた。別段、大きな関心があったわけではない。ただ、どうしてメディアにあれほど騒がれたのかを知りたかったからだ。
 製紙業界は、この10年間に人口減少に伴う紙の需要の低下や、輸入紙の流入など、安穏としてはいられない状況が続いているそうだ。その危機感の表れが、大がかりな企業統合、事業再編といった動きにつながっているらしい。業界1位の王子製紙が買収しようとした理由も、北越製紙が持つ最新技術の工場に魅力を感じたからだという。しかしその一方で、業界が混沌とする中においても、高い技術で自主独立を守りたいと考えた北越製紙は、その要請を跳ね除けたのだ。地域(新潟県)に根ざした企業の存続が問われる中、地元の商工会をはじめとした地元企業が呼応するように北越株の買い増しに動いた。いくら儲かったという資本主義的な企業の価値感で売り買いをするという考えではなく、言うなら企業の志が、資本の論理を打ち砕いだことになるのだろう。そんな内容を見ながら、長岡という地名もあってか、司馬遼太郎の「峠」という明治維新の動乱期、長岡藩の舵取りをした河井継之助を描いた長編小説の記憶が重なった。
 その当時の日本は、各藩が幕府を核としてそれぞれの国家を形成していたと思ったほうが分かりやすい。新しい時代への期待と同時に、核が分裂するように、尊皇攘夷を掲げる新政府軍となる国家軍と、徳川旧幕府軍を支える国家軍との国内戦争(戊辰戦争)が勃発する。海外の列強諸国は、武器の調達に協力しながら内戦により国力の衰えを首を長くして待っている状況に、日本の未来に危惧を抱いた継之助は殺される覚悟で朝廷に内戦回避の建言書を提出する。しかし、受け入れられることはなかった。時代は継之助を孤立へと追いやっていく。戦乱へ突入していく中、旧幕府勢力が次々と寝返るのを見た継之助は、江戸の藩邸全財産を処分し、その金で暴落した米を買って函館へ運んで売り、また新潟との為替差益にも目をつけ軍資金を増やした。それを当時の日本には3機しか輸入されていなかったガトリング砲2機、フランス製の2,000挺の最新式銃などの最新兵器を購入し、長岡藩を武装中立という永世中立を国是とするスイスのような国にしようと決意した。軍備を充実させる一方で、継之助は事を平和に解決しようと東奔西走し、小千谷にかまえた西軍の軍監岩村精一郎と慈眼寺において談判する(小千谷談判)のだが決裂し、ここにおいて長岡藩は参戦に踏み切ることになる。結果は歴史が示すとおり、当初は最新兵器の武装と、巧みな用兵により新政府軍の大軍と互角に戦ったが、絶対的な兵力に劣る長岡軍は次第に劣勢となり敗戦に追いやられ、左膝に流れ弾を受け重傷を負った継之助も、破傷風により死去(享年42歳)する。
 武装による永世中立という高い志を目指したが、結果として長岡を焼け野原にした責任は賛否両論あってしかりだ。しかし、だれもがいつも明るい道を歩き続けて目的地にたどり着けるとは限らない。一寸先は闇の暗い峠のような道を進まなければならないときもある。一つの時代に志という明かりを頼りに進み続けた河井継之助という人物に光を当てた司馬遼太郎の小説と、今回の買収劇が妙に重なり合って、思わずあっぱれ長岡藩と、小躍りしたい気持ちに駆られた。
 敗戦後、復興を目指す長岡藩から新しい息吹が生まれる。国がおこるのも、ほろびるのも、まちが栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある。目先のことばかりにとらわれず、明日をよくしようとした米百俵の精神である。それは今回の出来事にも感じられたのではないだろうか。

参考著書:「峠」司馬遼太郎  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』