戒めの記憶
2005年2月1日
この時期になると毎年のように思い出すことがある。10年ほど前に覚王山日泰寺で参加させていただいた五日間の摂心のことだ。摂心とは「心をおさめて散らさず」という意味で、自然に禅定力が養われ、本来の自己、自他平等で欠くことのない仏心を自覚するための修行の期間をあらわす。私自身、仏道に興味がなかったわけではないが、オーストラリア人の友人に強く勧められての一般参加だった。なぜ、日本人の私が外国人に勧められるのか。立場が逆ではないかと思われるので、彼との出会いも少し付け加えさせて頂くことにする。
更にさかのぼること5年ほど前、しょうゆ焼きそばが特に美味しいとよく通った無国籍料理店があった。ある日、ホールで働いている彼と話をする機会があった。片言の英語と片言日本語でのやり取り、やがて身ぶり手ぶりになり会話も白熱してくる。初対面ながら気が合ったせいもあって、私の英会話の先生をするという約束を取り付けた。それがきっかけで当時のヘルシングあいのスタッフも含めて英会話レッスンを始めたのだった。彼に日本で働く目的は何かを尋ねたところ、日本の文化、特に仏教に大変興味があるとのこと。働いてお金をためては全国各地をサイクリングで、四国八十八箇所巡りや、高野山に座禅を組みに行くことを日課にしていたのだった。そんな彼から感化を受けての摂心参加となった。
2月も初旬、凍てつくような寒さのころそれは始まった。初日の参加者を見て驚いたのが、外国人の男性や女性が数人いたこと(彼らは最終日まで休むことなく参加された)。起床は早朝3時。寒さも足のしびれも麻痺しながらの座禅。15分の休憩をとりながら45分間隔の座禅をひたすら組み続ける。嬉しいのは2時間後の5時ごろに出される甘酒。体の芯まで温まる。そして3回の精進料理。ほんの一瞬の至福の時。終了は夜の9時。寝て起きては座禅の繰り返しは5日間に及んだ。
最初座禅をしていると悩まされるのが、足のしびれもさることながら頭の中を妄想が渦巻くこと。普段感じられなかった頭の中の詰め物が一気に噴出してくるような感覚が襲ってくる。こんなに日常考えごとをしていたのか不思議になる。しかも修行場は一切私語厳禁。言葉一つ発せられない。休憩の間でも暖をとるため集まって話しをするようなら容赦なく厳しい説教が飛ぶ。始めは少しくらいいいではないかと反発する気持ちもあったがよくよく考えてみると、他愛もないおしゃべりにすぎない。無言のまま黙々と自分に向き合うという座禅の意味がうっすら感じられてくるのだった。3日ほど経つと頭の中が軽くなってきて、その詰め物が一掃され、浮かんでは消えシャボン玉のように空間の中を漂っている心地よさを体感した。
一連の修行を通じてこの心地よい感覚は、後に経験した断食と似ていると感じた。食べるものを断ち、身体の詰め物を排泄することによって、肉体だけでなく精神の詰め物まで落ちていき、自分の身体が軽くなる感覚だ。私たちは、ともすれば至れり尽くせりで身にまとうものは山積し、次第にそれが当たり前となり、後に不平不満につながっていく場合が多い。「癌」とは、「品」ものの「山」に「病」(やまいだれ)とある。そうならぬよう自分を戒めるためにこの記憶は旧暦の新年であるこの月に蘇ってくるのだ。
一緒に座禅を組んだ彼は、後に高野山で修行を積み、「豪人」の称号を受けた。その後の足取りは不明だが、今ごろ世界のどこかでひっそり座しているのだろうかと思うのもこのときである。