稲刈りを終えて
2014年10月1日
今年もあっという間に稲刈りの時期、昨年は孤軍奮闘でそれを終えるのに数日かかった。それが今回はスタッフが手伝ってくれたおかげで一日で終えることができた。本当に助かった。
稲刈りには、個人的に貴重な思い出がある。それは20代後半の頃だった。この店を切り盛りしながら小川茂年先生という方の「手当て法」を毎月主催していた。その先生の独特な雰囲気と、手を当てるという自然な動作から体を整えていくという方法に魅了されたためだ。全国でその勉強会が行われていたために、名古屋へ来るのは月1回。そして次の目的地に向かう。一周その旅を終えると自宅のある伊豆の下田へ戻って自然農法で米や野菜を作っていた。そこに2度ほど遊びに行ったことがある。長屋に沢山の書庫のほかは炊飯道具にちゃぶ台があるくらいのシンプルな生活空間だった。その書庫から本を引っ張りだしては先生に疑問を投げかけるとすると、すぐに答えが帰ってくる。記憶力の抜群な方だった。
確か68歳の誕生日を迎えてすぐのお彼岸の日に突然この世を去った。一ヶ月前には名古屋でいつものように勉強会をしていた。改札まで見送って、来月もまたお願いしますというと、「生きてたらね!」という言葉が先生との最後の会話となった。
葬儀に参列し、全国から集った先生の仲間と先生の田んぼの稲刈りをした。その淡い記憶が今でも心の血液となって全身を流れている。「生きている」という命の大切さを教えてくれた方だった。
先生が毎月味わいのある直筆を元に印刷していた「生きている」。その詩の中から稲作について書かれたこの詩をご紹介したい。
稲穂の垂れの重みが 秋空をうつしている
そこには 太陽と水の姿がみえる
米というのは 太陽という父と
水という母から生まれた 子供だ
太陽の力強さと 水のやさしさがある
暑さと冷たさ 暖かさと安らぎがある
太陽の偉大さが 下につき方円に従う
水の性をうつしている
母というものに 父が従うかたちが
稲穂にあらわれている
それが 稲づくりを田づくりとした
生活の思想をも うみだしている
幼児を養う乳に チチという言葉を与えた
思いが浮かんでくる
しかし もうこの国には
稲が伝えた生活も 思想も文化も
なくなって 稲だけが育っている