稲刈りを終えて
2013年10月1日
今年の4月から始めた米作りも、あっという間に収穫の時期をむかえた。台風の直撃を受けたものの、倒れた稲穂は水に浸かることなく水面上でこらえていた。山からの湧き水が絶えることなく田んぼに注がれているために、深いところでは膝下まで沈む。そんな足場を気にしながら、稲の束を一つ一つ手作業で刈り取っていく作業は正直身にこたえた。しかも稲架掛けするためにワラでその稲束を括らなければいけないからさらに一手間だ。高齢になると厳しい。だから機械化されるわけである。コンバインで刈り取るほど楽なことはない。そのため人間中心の機械に合わせた田んぼが作られ、そに農薬や化学肥料を使えば、雑草の心配はいらないし、収穫まで眺めていればすむ。そんな田園風景が日本全国に広がっている。
米作りをして痛感したのが、田んぼというのは生命の宝庫と感じたこと。どんどん生命が溢れてくる。蜘蛛やカマキリ、ザリガニ、トンボやアメンボにキリギリス、カエルやカメやカニまでいる。自然の中で人間が仲介となり、生命の源を作るのが米作りと感じた。生き物が次々に生まれるということは、それだけ環境の浄化に繋がっている。重労働な田起しや田植え、雑草取りや稲刈などの作業は毎日続くわけではない。私などは一週間に一回田んぼに通っていたに過ぎない。それでも、稲がしっかり成長してくれて、一粒万倍の穂をこしらえてくれるのである。さて一体何キロのお米が取れるか見当もつかないが、そんな収穫のことより大切なことをたくさん気づかせてもらった気がする。 田植えをするころになって水草が大発生した。稲がまだ小さいためにその水草に埋もれてしまっては成長できないと不安に思っていた。ところがその水草は絶滅危惧種のものだと教えられた。農薬や化学肥料を使用せずに今年で3年目というこの田んぼで、見事今年その水草が復活したのだ。それは稲の周りを一面被ってしまうため、太陽の光が遮られ、雑草が生えにくくなるそうである。病気が発生するのを気にしながら、薬を撒くが良いか、自然に任せてその恩恵に浸るのがいいか、そう考えると我々のカラダの関係と根は同じである。
日本人が古くから大切にしてきたものが米作り。そのためそれにまつわる宮中行事や各地の祭り事が多いのも当然のこと。本来は五穀の収穫を祝う新嘗祭である11月23日の祝日も、その名称を勤労感謝の日に改称されたに過ぎない。今年行われる式年遷宮、1300年続く歴史は米作りを継承したといっても過言ではないだろう。そんな我が国が誇れることが、こんな手近にある。
「米を粗末にすると目が潰れる」と言われたのは子供の頃のことだった。しかしそれからたった数十年でわが国も様変わりしようとしている。本当に大切なもの、その本質を忘れた今の日本人のことを、この言葉は予見していたのではないだろうか。物を粗末にしたものは、命の大切さなどわからないのである。しかし、どんどん再生する自然の息吹を見て、それでもまだこの国は見捨てられていない気もしている。この場所を提供してくださった澤田さんと、休耕田を復活させた名城大学の小池先生に、この場を借りて御礼と感謝を申し上げたい。