葉っぱ 生きる

2010年9月1日

残暑が身に堪える日が続いている。先月と多少変わったといえば、日が短くなったことと、夜の寝苦しさが幾分かおさまったことだろう。今年は湿度の高い日が特に多い。それが暑さをいっそう不快なものにしている。植物への水遣りも、早い時間にしないと一汗かいてしまう。毎日の日課は自然と早くなる。そんな早朝のある日のこと、いつものように水遣りをしようと裏庭に出ると、大きなゴミ箱の隙間から、2匹の、まだヨチヨチ歩きの子猫が鳴きながらこちらに向かってくる。意味が分からなくてもう一度よく見た。やはり子猫が足元で鳴いている。ところが、ホースから出始めた水に驚いて、2匹ともすごすごとゴミ箱の隙間に逃げていった。内心これは大変なことになったと思った。捨て猫だろう。母猫が運んできたのか?猫の世界も人間の世界と一緒か?そう思うと怒りがこみ上げてきた。そして、5月の連休前の出来事と重なって憤懣やるかたなくなった。その出来事も、突然のことだった。店の入口のシャッターを開けようとすると異臭がする。足元を見ると、猫の臭い糞が数箇所に渡ってしてある。呆然としたが、鼻が曲がるような臭いに我に返り、せっせと汚れを拭いた。何が起こったのか?予期せぬことが起こると、うまく思考回路は働かないものらしい。効果的な手を打たぬまま、翌日も、そのまた翌日も、同じ場所に糞をされてしまった。どうやら猫から言わせれば、その場所がトイレと思われているらしい。そうじゃないことを分からせないといけないということが調べて分かった。その方法もいろいろだったが、断固として意識を変えさせなければいけない。植木の配置を代え、柑橘系の臭いを嫌うことからレモンのスライスを一面に置き、レモン果汁まで入念に周辺にまいた。こんなことで、せっかくのゴールデンウィークが過ぎようとしている。祝日最終日の朝、恐る恐る近づいてみると、糞がしてない。妙に嬉しくなった瞬間だった。そして今度は子猫である。頭を保健所がちらついた。一連のことから猫アレルギーになっていたのである。母猫が連れて帰っているかもしれないと期待をしながら裏庭に出た次の日、鳴き声は聞こえない。ほっとしながらゴミ箱の隙間を覗き込むと、身震いしながら子猫1匹が足元に向かって進んでくる。ひょっとしてもう1匹いるのかと思って探してみたが、どうやら母猫は1匹だけを連れてどこかへいってしまったようだ。かわいそうに一人ぼっちになってしまったのか、それとも迎えに来るのだろうか。その翌日も、この子猫だけが、今にも枯れそうな声を思いっきり出しながら向かってきた。まだ、目もよく見えていないようなのに、生きる表現を精一杯しながら音のするこちらに向かってきたのである。その瞬間アレルギーはなくなっていた。この小さな命を守ろうという思いに変わっていたのだ。孤児になって悲しんでいられない。だれかに寄りかからないと死んでしまうことを、つい生まれて間もないこの子猫は本能で知っているのである。その日からスタッフと交代で、えさやりが始まった。動物病院にも連れて行き、生後約1ヶ月ということが分かった。虚弱だか、元気がいいので大丈夫と先生に言われて胸をなでおろした。
終業時間、シャッターを閉めるために裏庭に出ると、いつものように、それを察して一目散に寝床へ帰っていく。ごみ箱の脇の小さな隙間にである。覗き込んでも姿が見えない。これから朝までの時間は、ひとりぼっちだ。なのに自分だけが頼りといわんばかりである。「今日もお疲れさん。今に見てろよ。もうすこし大きくなったら、この場所ともおさらばしてやるからな。それまでは、お宅らが頼りなんだ。それまでよろしく頼む。」そんな逞しい声が聞こえるようだ。晩夏の珍事は、生きるという大仕事を、小さな命が気づかせてくれる出来事になった。