足 跡
2002年5月1日
長びく不況が続いていた今から20年ほど前のアメリカ合衆国。ワシントン・ヒルトンホテルで開かれた「国家朝食祈祷会」に出席したレーガン大統領が真剣な顔で読み上げたのが一つの詩「足跡」。一呼吸おいて語られたスピーチは「私はこの話を信じる。そうでないとすれば、この極めて困難な四年間、私は合衆国大統領として責任を全うすることができないであろう。」と結んだ。
わが国でも今月でちょうど1年を迎える小泉政権。昨年、所信表明演説で語られた「米百俵」の精神は記憶に新しい。小林虎三郎氏の言葉をあてはめれば「その日暮らしでは日本は決して立ち直らない」という思いが込められていた。「今の痛みに耐えて明日を良くしようという「米百俵の精神」こそ、改革を進めようとする今日の我々に必要ではないでしょうか(後略)」総理の語る言葉に国民の多くが期待したのは言うまでもない。
国々の宗教や思想などの違いはあるにせよ、心情には共通したものを感じる。世紀を経ても変わらない精神論と宗教心。その足跡は消えることなく、その輝きを失わない。そしていまもなお混沌とした時代を生き抜く私たちに大きな示唆を与えているように思われる。
「足 跡」
ある夜、ひとりの男が神と共に海岸を歩いている夢を見た。
大空には彼の人生の一コマ一コマが写し出され、それぞれのシーンに二組の足跡が砂の上にあるのに気が付いた。
一つは彼のもの、そしてもう一つは神のものであった。
人生の最後のシーンが写し出された。彼は後ろを振り返り、砂上の足跡をみた。彼はその中で何度も、足跡がたった一組だけになっていたことに気がついた。
そしてそれは彼が人生の中で最も落ち込み、悲しみに満ちていた時であった。
そのことで彼は悩み、神に聞いた。「神よ、かつて私があなたに従うと決心したら、あなたは全生涯、私に伴ってくださると言われました。
しかし私は人生の最も苦しかった時に、一組の足跡しかなかったことに気がつきました。
あなたを一番必要としていた時に、なぜあなたは私を見放されたのか分かりません」
神は答えられた。
「私の最愛の子よ、私はあなたを愛している。そして決してあなたから離れはしない。あなたの試みの時、悩みの時、足跡が一組しかなかったのは、
その時、私があなたを背負って歩いていたからだよ」
「米百俵の精神」
江戸から明治へと時代が移り変わろうとしている1868年、戊辰の年に勃発したことから名付けられた戊辰戦争における新政府軍と旧幕府軍との激しい戦いで敗れた長岡藩の禄高は七万四千石から二万四千石にまで減らされた。食糧がみるみる底をつく飢餓状態が続くなかで、隣の三根山藩から見舞いの米が百俵が贈られのだが、皆が喜んだのもつかの間、藩の大参事小林虎三郎はこれを皆に分けることなく売ってその代金で学校を建てると言う。怒り狂う藩士達に虎三郎は死を覚悟で「その日暮らしでは長岡は決して立ち直らない」と説得を続け、ようやく賛同を得て学校建設にこぎつけたという話し。明治3年6月15日、国漢学校の新校舎が坂之上町(現大手通2丁目、大和デパート長岡店の位置)に開校した。
※小林虎三郎 (1828~1877)兵学と洋学で有名な佐久間象山の門下に入り、長州の吉田松陰とともに「象山門下の二虎」と称せられる