ヘルシングあい便り

バリアありー?2004.11.01

車のラジオから流れてくる言葉にふと耳をとめた。バリアフリーの住宅がかえって、些細な事故を増やしているという。住みよい環境は、高齢者や不自由な人にとって欠くことのできない条件。それが満たされた環境の中でなぜ事故が起きているのか。と、興味を持って聞き入った。その理由はとてもシンプルなものだった。今までとはガラッとかわった障害のない生活。そのために使わなくなった機能が退化し、気にもしていなかったちょっとした段差につまづいたり転倒することが増えているというのだ。
今、世界はユニバーサルデザインという言葉に象徴されるように、「すべての人のためのデザイン」年齢や障害の有無などにかかわらず、最初からできるだけ多くの人が利用可能であるようにデザインすることを良しとする風潮が高まっている。便利で簡単、万能といえばだれしも否定はしない。逆に賞賛する声のほうが多いだろう。私自身も賛同したい。しかしその一方では根深い問題を生み出していることも感じずにいられない。日常の行動にたとえるなら「座る、立つ、しゃがむ、食べる」などいろいろなことが考えられるが、最も日常のことであるにもかかわらず、失われつつある行動といえば、「日本人の指先が器用なのは5~6才ころから箸を持つ訓練を日常二度三度の食事に繰る」といわれていることや、「腰の強さも一つには便所での蹲踞(※[帯刀][抜刀]に続く姿勢。抜刀し、中段の構えを通過し両膝を曲げながら開き、腰を落とす意味)の日常的繰る事にある」などがすぐ思いたつ。
箸もトイレも無くなったわけではないが、箸が上手に使えなかったり、トイレはしゃがむから座るに使い方が変化している。これらのことはほんの些細なことかもしれないが、長い年月をへてその動きが退化につながるのか鍛錬につながるのかでは大きな違いがある。それまで不便で捨てたいと思われるものもひょっとしたら体の機能を応援している財産なのかもしれないからだ。
ラジオの解説者は声を大にして「バリアフリー」ではなく「バリアありー」を提唱していた。

そういえば300年続いた徳川時代。家康もこのような格言を残している。
「人の一生は重荷を背負いて遠き道を行くがごとし  急ぐべからず 不自由をつねと思えば不足なし怒りは敵と思え 勝つことばかり知りて負けることを知らざれば害その身にいたる」


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