ヘルシングあい便り

自然に即して、生きて逝く2017.12.01

 ご縁とは不思議なものです。ふと気になって店の入口に置かれているイベントのチラシに目をやると、忘れもしない方の顔が入った講演会の案内があるではないですか。日時はその日の翌日。ちょうどスタッフの居てくれる時間帯。偶然が重なるとはこんなもので、その講演会に伺うことが出来ました。
 30代半ばくらいだったので今から15年ほど前になります。臨死体験をテーマにした講演会に参加しました。その時の講師が忘れもしない方であるアメリカ人カール・ベッカーさんでした。アドリブを交えながら全身全霊で話す姿に吸い込まれていった覚えがあります。宗教が異なることから起こる事情、そして日本人が忘れかけていた日本人の姿を、異国の方から拝聴できたことは、貴重な経験となりました。
 アメリカをはじめとした欧米社会では、「キリスト教の伝統的背景の心身二元論の立場から、死体は単なる物であって固有の意味をもたないと考えられ、ここから脳死が死であることが受容され、脳死状態(単なる死体)からの臓器提供が推進されていると言われる」(脳死・臓器移植とキリスト教より)魂は永遠に続くものだが、肉体は単なるモノであると割り切った死を捉えた死生観です。その一方で日本は、死は終わりではなく、心のなかで生き続けている。そして新たな出発と考える。そのため、死者を大切に弔う習慣が続いてきました。カール・ベッカーさんは、50年以上前に米国で始まった臨死体験の研究で、末期症状の患者を相手にしていた精神科医のキューブラー・ロスさんの様々な事例を紹介しつつ、心臓停止から蘇生した患者たちの口から、「神様や死者が迎えに来た」「蘇生術を施されている自分を、手術室の天井から見下ろしていた」などの、驚くべき証言や、いわゆる「体外離脱」(幽体離脱)などと言われる現象などを取り上げながら、死が終わりではないという日本人の死生観は、間違っていないのではないか。脳死や心臓停止を死と判断する欧米社会の基準に対して疑問を投げていました。
 小柄ですが、バイタリティーあふれるカール・ベッカーさんのお話しは、今回もさらに深く心に染みる内容でした。大家族で生活していた頃の日本人は、働き手が農作業や仕事へ出るため、子どもの世話を祖父母が見ていた。そしてその祖父母が高齢になって世話をしたのは、面倒を見てもらった子供たちだった。その祖父母の死を看取って、死を身近に感じることができた。日本のように犯罪が少なく、また多くの老人が自分の生まれ育った家の畳の上で、家族に囲まれて他界できた国は他にはなかったそうです。それが環境が大きく変わった今、看取る場所が病院に変わってしまったため、死というものに対して触れる機会がなくなった。それが陰湿ないじめや猟奇殺人につながっていると。
 西洋東洋を問わず、大事な人に死なれてしまうと、1、2年も経たないうちに、事故や、病気、精神異常や最悪の場合は鬱や自殺などの確率が高くなるそうです。そこで、ある病院で本人患者自身が長くないとわかった時点で、毎月のようにパーティーを行います。そのパーティーに、どうせ死ぬんだから何を飲もうが食べようが自由で、持ち寄せの物を飲んだり食べたりして、一緒に泣いたり笑ったり黙り込んだり握手したりして、そして本人がいなくなってからも、同じ仲間や家族を呼び寄せて、毎月数回ほどその儀式を続けます。そうした場合にそれら発症例が激減するそうです。しかしこの知恵も日本人は昔から持ち合わせていると教えてくれました。それが初七日や四十九日、初盆、一周忌など定期的に親戚や友人などを集めて行うことですと。今まで続いてきた習慣には意味がある。忘れ去られようとしてる良き日本の伝統を後世に伝えること。これが私たちの役目なんだと深く感じた内容でした。
 中途半端になりましたが、お話しの中身が濃すぎて、ほんの少ししかお伝えできないのが残念です。カール・ベッカーさんのお話しは、youtube(NHK文化講演会の時間)でもお聴きいただけます。

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